2nd seasonの人生

人生最悪の出来事が起こった時、人間はどう生きるのか。

僕らを待つ場所

あなたは今、どんな場所で生きていますか?

 

ステイホームできない、明日を生きるのすら精一杯な人。パソコンを持って おらず、家では完全に社会から隔離されてしまう人。勉強ができるような家庭環境でない人。外で遊ぶ自分を自慢げにSNSに載せる人。「クラスター フェス」と称し、コロナに積極的にかかろうとする人。感染者を引っ越しにまで追い込む地方の村社会。

 

普段暮らしているとそのような人と出会わない、という人が殆どだろう。だけど、これが、今の日本社会なのだと思う。

「人はその周りの五人の平均値だ」という言葉がある通り、社会的ステータスの近い人々は集まりやすく、自分の見えている物が世界の「ふつう」であると錯覚してしまう。しかし、自分の見ている世界は社会のほんの一部にしかすぎない。校外で活動するにあたり世の中一般の「ふつう」の感覚があると思っていた僕だが、その「ふつう」の感覚はその人の生育環境にあまりにも依ってしまうこと、また、自分自身の「ふつう」の感覚 に頼り過ぎている自分の存在にも気がついた。そこで今回は、僕にとっての「ふつう」について書こうと思う。

あなたのふつうも、教えてください。

 

 

【第1部1章 誕生】

2003年、三重県で生まれる。本当は父親の実家の岡山で暮らす予定だったらしいが、僕の先天性疾患が見つかったことにより、母親の実家で当面の間暮らすこととなる。理由は医療格差。岡山には高度な医療を受けられる医療機関がなかった。心停止で帝王切開で生まれ、NICU(新生児集中治療室)で新生児期を過ごした僕からすればそれは致命的である。生まれて初めて口の中に入れた物は、気管挿管チューブ。初めて飲んだものは母乳でもミルクでもなく、劇薬指定されている薬剤。初めて撮って貰った写真は、家族写真でもなく母に抱かれる姿でもなく、CT。もちろん、生まれた日のピンショットもギリギリあるけど。写真を撮る時だけNICUにいることが分からないように機器を外して配慮してくれた病院。部屋中に鳴り響く機械類がうつらないように撮ってくれた父親。今となってはとても感謝している。(理由は後述)

僕の中でギリギリ記憶のある2歳の時期。入院してた期間もあるけれど、毎日病院に点滴打ってもらいに通った。雨の日も風の日も雪の日も、ベビーカーを押して泣き喚く2歳児を連れて遠い病院まで通ってくれた母親。ありがとう。物心ついた頃には点滴も注射もしてたから嫌がったり泣いたりしなかったらしい。なんて逞しい2歳児だ(笑)。病院では毎日やってくる子供として大人気(?)で、よく看護師さんや検査技師さんに遊んでもらった記憶がある。針のついていない注射器でお医者さんごっことかしたなぁ。今思えば、ドンキやダイソーに売ってるおもちゃの注射器じゃなくて、なんでも本物で遊ばせてもらってたことに驚く。聴診器だって、主治医の先生から貸してもらったり、奪ったり。(その先生は2歳児に奪われるから2つ持ってたとか持ってなかったとか…)

当時はそれが「ふつう」の生活だと思っていたけれど、断じてそんなことはないと今では思う。

 

【第1部2章 世間】

僕はなんだかんだ病気と争いながら成長した。もちろん、病気も成長したのだが。。。

ある日、僕は入園式を迎えた。人生はじめての集団生活。毎日が衝撃の連続だった。まず驚いたのが、僕以外の子供たちは酸素ボンベを持っていないこと。僕は生きていくのに酸素ボンベが欠かせなかった。もしなければ、SPO2は80を切ってすぐ死に至る。病院のお友達もみんな持ってたし、点滴という相棒もみんなついれていた。だから、この状態が「ふつう」だと思っていた僕にとっては衝撃で、次の日から幼稚園には行かなくなった。というか、行けなくなった。3歳児は3歳児なりに、羞恥心というか周りと違うのが嫌だったというか、今では言い表せないが一種の違和感を感じたのだと思う。

おもちゃだって全部プラスチックだった。聴診器も見つけたけど、自分の心臓に当てても ドクッドクッと生きている心音は聞こえなかった。自分の知っている世界とは違いすぎて何もかもが嫌になった。園庭で遊ぶ時間もみんなはかけっこしたり砂場で遊んだり生き生きとしていたが僕は1人部屋の中。何もすることはなかった。

僕は「ふつう」の子供ではなかった。

 

 

【第1部3章 入学、そして…】

小学校入学と同時に、引っ越して住宅地に家を建てた。大阪大学医学部附属病院に通院するためだ。近所の友達と一緒に登校するようになり、楽しい学校生活が始まった。小学1年生のとき苦労したのは、分からない言葉が沢山あったことだ。「やばい」「くそ」「死ね」最初は保育園を卒 園した子たちが何を言っているか分からず、「どういう意味?」と聞いてひ とつひとつ理解していった。「バイタル」とか「アイシー」とか「アレスト」とか医療用語はほとんどわかったのになぁ。。。

2010年の文部科学省のデータで、「保育園卒より幼稚園卒のほうが学力が高い」というのがある。もちろん保育園卒で優秀な友達は沢山いるが、 「幼稚園の子の親の方が、比較的裕福で高学歴層が多い『傾向にある』」ことは当時を振り返ってもそうだったと思う。保育園と幼稚園で教育内容に差 があるわけではなく、保育所は低所得層など、家庭環境が不利な子どもにも 門戸を開いているからだ。僕の家庭は決して裕福なわけではない。だが、病人の面倒を診てくれる保育所がなかった。

なんとか小学校にはギリギリでかじりつき、時は進み小学3年生。ここまでも、入学直後からいじめられたり殴られたり色々あったが、特記すべき事項なしとする。

3年の時に、主治医の先生から冷たい一言をかけられた。

「君は周りの子供達と同じように生活することは一生できない。」

9歳の子供に言うには配慮がないとは思うが、そう言ってくれた先生には今となっては感謝している。きっと、その一言がなかったら今僕はここにいないだろう。周りの子供達と同じように生活できないと言うことは、放課後遊んだり、長期休みに友達と公園を山を駆けずり回ったりできないと言うこと。だから僕は周りの子供達がしていない、学問の道に進んだ。周りと同じことができなくても、僕にしかできない武器が欲しかった。

小学校には勉強のできる子もいるし、できない子もいた。貧しい家庭の子もいたし、裕福な家庭の子もいた。複雑な環境の子もいた。とにかくさまざまな子がいて、それは社会の縮図のようだった。そこで私たちは、お互いの背景を全く考慮に入れず、ただただ相手を「○○くん」「○○ちゃん」という名前で認識し、手を握っていた。

 

【第1章4部 理解】

小学生で学問の道に進んだ僕は、中学受験をして私立の中高一貫校に進学した。小学生の頃は会話の中で「どういう意味?」と尋ねられることは しょっちゅうだったが、ここなら相手が自分のことを深く理解してくれる。 それが何よりも心地よかった。また、「勉強ができない」ことで怒る先生を 初めて見た。今までは「宿題をしてこない」という「過程」で怒られること はあったが、「結果」で怒られるのは初めてだった。相手を蔑む言葉が「あんまそれは頭悪いぞーww」になった。

神様が、子どもたちの生まれる場所を決めるくじがあったとする。えい やっ!その手がもし右に2ミリずれていたら、私は生きているだけで邪魔者扱いされるストリートチルドレンだったかもしれない。反対に、 左に1ミリズレていたら、テレビに出てくる我儘なビバリーヒルズの金持ち 娘だったかもしれない。私はなぜ、ここでこうして生きられているのだろ う。そう思ったとき、この社会の不条理に挑もうと思った。挑まなければならないと思った。恵まれない人たちのために、人生を捧げようと思った。

 

【第1章5部 立ち止まれ】

僕は、さっきも書いた思いをもって中学生活・高校生活を送っていた。学校全体の動きを円滑にするための組織、総務にも入った。毎日最終下校時刻まで業務をこなし、しっかり学校に還元しているつもりではあった。卒業式では、在校生代表で送辞を読まさせてもらった。文章は自分で作り、筆で奉書韓紙にちょっとカッコつけて書いた。

どれだけ人のために働こうと、嫌味を言ってくる人たちは一定数いる。例えば自分の意見が通らない時。僕は自分の身を削ってまで学校のために、全校生徒のために業務を行ってきた。それでも、批判的なことを言う人は増える一方。正直やってられなかった。どれだけ自分を犠牲にしようと、認められるどころか大多数の「ふつう」に淘汰される。

僕は立ち止まり、学校を辞める決意をした。高校1年の10月。

 

【第1部6章 捨てる神有れば拾う神あり】

唯一僕の武器だった学問に捨てられ、人間としての心をすっかり失っていた。だが、この世の中は捨てられる一方ではない。知り合いに私立の高校で教師をしている人を思い出し、連絡してみた。学校を辞めたことを告げると、すぐに連絡は返ってきた。どうやらそこの高校で受け入れてくれるらしい。ありがたや…ありがたや…

こうして僕は次の神に拾われたが、そこでもやはり驚きの連続だった。僕は中高一貫校に行っていたので、校則が素晴らしく厳しかった。それに、中学受験を経てる人しかいないので、言葉はよくないがちゃんとした人しかいなかった。

まず苦しんだのは、高校の「ふつう」に慣れること。校舎内に何台も自販機が立ち並び、休み時間には教室でお菓子やらジュースやらを飲み食いしてる。スマホの使用は禁止されているけれど、持ち込みは許可されている。授業は1コマ45分で、進度は遅い。

自分の「ふつう」とみんなの「ふつう」が違いすぎて正直しんどかったが、友人には恵まれた。初日から明るく絡んでくれたり、課外活動でたまたま1週間一緒に仕事をしただけなのにその後も仲良くしてくれた。人間の心を失った自分が、自分の心を思い出している。そんな気がした。

 

【第2章1部 新たな始まり】

ここまで病気に関してはほとんど触れずに歴史を綴ってきたが、実は重病人だ。2021年9月、どうやら僕の体の中にある爆弾は爆発寸前らしい。夜寝て、明日の朝を迎えられる保証がない。そんな毎日を今日も過ごしている。

苦しむぐらいなら早く死にたいと大切な人に言ってしまったこともあった。その人は、とても立派な人で、弱気な僕を全力で叱ってくれた。同情するでもなく、応援するでもなく、叱ってくれた。

カウントダウンのタイマーが早まったとわかった時、学校を辞めようとした。だって、どうせすぐ死ぬのに学問をする意味なんてないから。でも、周りにはきっと悲しむ人がいる。そう思えた。今まで学校行事にはほとんど参加しなかったし、学生生活の中で修学旅行に行ったこともないけれど、最期まで生ききりたいと思えた。

もうすぐ、人生最後になるであろう行事の体育祭がやってくる。最後まで生き切ると決めた以上、休むことなく参加したいと思う。みんなができる「ふつう」のことができなくとも、僕は僕なりの体育祭をする。

病気に抗わず、共存する。共に生き切る。僕の新たな人生(2ndseason)の新たな始まり。

どうか、暖かく見守っていてほしい。

 

 

人口の大半が持つであろう「ふつう」の感覚があるというのはどうやら貴重だそうだ。今までたくさん泣いたけど、正直今が一番楽しい。だけどそれも 自分自身の努力だけでつかんだものは何一つなく、何だかんだで応援してく れている両親、学校、地域、そして世界中の人々のお陰でしかないのだと 思っている。「もしも、運命の流れに身を任せていたら、僕は大学進学すら 考えなかったかもしれない...」そう思うと一つ一つの選択の重さに気づき少 し怖くなる。だけど運命の流れを変えるような選択を出来たのは、やはり僕がそんな選択をできる最低限の環境が整っていたからであって、その奇跡に 改めて感謝するしかない。

 

【今後の社会を創る、僕の友達へ (僕の告別式で伝えたいこと)】

「身の丈に合わせてもらえれば」。この言葉が生まれる背景には、「社会を創る層」「そうでない層」の分断があるのではないでしょうか。私が校外で 出会う友達のほとんどが、私立小学校出身です。しかし、全体の統計で見ると、私立小学校に通うのは人口のわずか1.1%。100人に1人。私立中学校に通 う人さえ、7.3%。彼らは、その狭い世界の中で競い、悩み、結論を出し、他 人を「優秀だ」「優秀でない」と判断します。あなたが見ている社会は、本当に「社会」ですか?大学進学率は58.8%って知っていましたか?社会問題について話す家庭は少ないって知っていましたか?

英語の民間試験が大学受験に必須?英検の受験料が皆払えると思ってるんですか? 思考力や文章力が重視される? 現代文の得点が、触れる情報量の差から圧倒的に地方のほうが低いのをご存知ですか?留学プログラムの書類。 今まで「自分をアピールする」経験なんて一度もしたことない、本当にいち ばん海外から遠い子たちは応募書類を書くのもままならず書類審査で落とさ れること、知っていますか?課外活動?地方では突飛なことして失敗したら、一生その町で馬鹿にされ続けることを知っていますか?それら全部含めて、「自己責任」ですか?あなたが今そこで議論していられるのは、全部あ なたの努力のお陰ですか?ディベート大会の議題で「貧困を体験すべきか」 があげられる世界なんておかしいと思いませんか?本屋、電車、塾、ぜんぶ ぜんぶ、当たり前にあるものだと思っていませんか?明日もクラスメイト全員が学校に来れるなんて理想でしかないんですよ?

 

首都圏の人口は、34.5%。3人に1人。

 LGBT層に相当する人、8.9%。11人に1人。 

私立中学校出身者、7.3%。14人に1人。

大学進学率、58.8%。2人に1人。

高校生の通塾率、27%。3.5人に1人。 

世帯所得が中央値の半分に満たない「相対的貧困」層、15.7%。6人に1人。

 

 

 

 

 

癌患者の5年後生存率、58.6%  2人に1人

ALS患者の平均生存年数、3.5年で、

    発症者生存率生存率、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 0%

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを「多い」と感じるか、「少ない」と感じるか。それは、あなたの「ふつう」次第です。人にはひとの、「ふつう」があります。それでいいんで す。恵まれていることが悪いわけじゃないんです。「格差の問題に関して は、僕は当事者じゃないから、語れないかなって...」

違います。この世の中の人々、あなたを含めた全員が格差問題の当事者で す。

僕の周りにいる優秀な中高生は、これから政府や大企業に入り、「世の中の仕組み」を創っていく人たちです。だからこそ、伝えたい。

自分が見てきた狭い世界の常識からしか人間は物事を判断できません。これ は紛れもない事実です。大切なことは、どれだけ世界を見ようとも、「自分は視野が広い」「自分は物事が適切に捉えられている」なんて思わないこと。自分の見ている世界を常に疑い、謙虚になること。常に相手の背景を受 け入れようとすること。自分が生んだ成果はすべて自分の努力のお陰だなん て思わないこと。

これらを胸に、どうか声をあげられない人の声を、聴いてください。

 

 

 

 

 この文章を読み、「なにこれ、当たり前の日常を書いただけじゃん」と思ったそこのあなた。この私たちの「当たり前」に、衝撃を受け涙する人がいるんです。こうやって人によって共感できない言葉、理解ができない言葉があることは、この社会の分断の証明なんです。どうかいっしょに、その「当たり前」を大切にしていきませんか。

 

 

 

 

生きてるだけで丸儲け。

僕の人生の尺度は僕が決める。

 

明日も生きよう。