2nd seasonの人生

人生最悪の出来事が起こった時、人間はどう生きるのか。

プロブレム

僕は高校生なので高校に通っている。数学、国語、理科、社会、英語、、、沢山の教科を習うが、先日は数学の授業が1日に3コマあった。3コマもあると当然学習する内容も多くなる。下手すれば1単元終わってしまうこともあるだろう。演習時間の中で先生はこんなことを言った。

 

 

 

「この問題は全部公式を用いて解きなさい。」

 

 

 

高校数学なら普通のことだとは思う。偉大な歴代の数学者が証明してきた「公式」に当てはめてどんな場合でも解を求めることができる。とても便利で、頭を使わずとも正答が出てくるし、使わない人はいないだろう。

 

 

では、この、「公式」がない問題に出会った時に、人類はどうするのか。いや、何ができるのだろうか。

 

 

我々の基礎を作る学校教育では答えのある問題しか習わない。例えば数学。例えば物理。例えば国語。国語の記述も模範解答は存在するし、自分の書いた答えにマル・バツ・サンカクをつけて点数化されてしまう。つまり、絶対的な答えが存在しているのだ。世界が定めた答え以外を書いた場合は大きくバツをつけられ、淘汰されてしまう。僕らは知らず知らずのうちに、義務教育と言う規則によって模範解答が絶対的に正しく、他は全てダメということを擦り込まれているのだ。

 

だが、この世には答えが存在しない問題が数多く存在している。数多くというよりも、答えの存在しない問題がほとんどと言った方が正確だろうか。ここでの問題は、学校で習う「答え(question)」ではなく problem   だ。

 

 

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安楽死は認められるべきなのか

 

 

どれも、答えは存在していないし、もし存在するのならば神のみぞ知る域だ。

安楽死を認めれば、それによって救われる人がいるかもしれない。でも、認められることによって苦しまなくてはならない人たちが出てくるかもしれない。認められない場合も然りだ。どちらが必ず正しく、もう片方が必ず間違っているというわけではない。ここで考えるべきなのは、答えを出すことではなく、そのプロブレムを解決するということ。

 

 

 

 

エスチョンには絶対的な答えであるアンサーが存在する。でも、プロブレムにはソルブ(solve) ー解決するー という言葉しかないのだ。つまり、プロブレムにはアンサーが存在していない。正解でも不正解でも解決することができるということではないだろうか。というか、そもそも正解も不正解もないので、全ての答えが正解であり、全ての答えが不正解だ。

 

 

今日も僕は答えのない問題を解決するために生きている。

どの治療方針が正解か。どの治療方針が不正解か。ではなく、「どの治療方針が今の自分が抱えている問題を解決することが出来そうか」で選びたいと思う。この世に絶対など存在しないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病気の治療方針として、「死ぬかもしれない選択肢A」と「死ぬかもしれない選択肢B」であった場合、あなたはどちらを選びますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はこう答える。

 

選択肢Aを選んでもBを選んでも生き抜いてみせる。Aを選んでそれがダメだったらBを選べばいい。だって、死なないんだから。生き抜くんだから。

 

 

 

明日も生きよう。